20130810_第2回 オープン・スペース

日時:平成25年8月10日(土) 10:00~15:00

場所:サンフォルテ302号室

参加者数:6人(男性:4人、女性:2人)

 

感想:

・まったく知らない人が来ても大丈夫な感じがした。

 変に意識していたけど、話をしているだけでも、自然と悩んでいることを話せる。

・ヘビーな(重い)話をしない日もあってもいいんだと思った。

・ふら~っと来て、話していくだけっていうのは、楽。

・きっと、その場で解決しなければいけないと思っているから、身構えてしまうのかもしれない。

・何かを聴こうとしている自分がいることに気が付いた。

・こういう機会に出会わなければ、自分は誰かに対してつまらないアドバイスを一方的にしている人間になっていたかもしれない。

 

 

20130608_第1回 オープン・スペース

チェックイン

(1)安心のための同意

 ・話したいときに話してよい

 ・あっちに行けと言われない(邪険にされない)

 ・無理に相談しなくてもよい(話の内容は雑談でもよい)

 ・音楽を流してもよい

 ・タバコを吸いたいときにいってもいい

 ・肘をつき要注意

 

(2)この場について感じていること ~どういった場であればよいか

 ・部屋にはいるとき、無機質な研修室の雰囲気が緊張する。

 ・扉が閉まっているところに入るのはとても勇気がいるので、開放しておいた方がいい。

 ・ブラインドが昇降しないため、自然光が弱い(暗くて圧迫感を感じる)。

 ・空気の循環が悪い。 → 扇風機で廊下から空気を入れる。

 

対話

(1)「死」について

・「死」という言葉自体は、生命の終わりや肉体の終わり、人生の終局を意味している認識だけれども、魂の存在や生命倫理の話は、個人や宗教思想にも関わってくるので、倫理観についてはここでは話し合わないことにして、自分にとって「死」をほのめかすときの心境や、経験について語ることにしたい。

 

・自分は存在しなくてもいいのではないのか、そんなふうに思ったときに感じる。理由はそれぞれにあるのだろうけど・・・。太っているのは痩せればいいかもしれない。知識がないのは学べばいいかもしれない。けれども、生まれや育ちはどうもならなくて、過去は変えられない。環境のせいにしているうちはまだ元気なうちかもしれない。そんな星の下に生まれてきたことを思うとき、その気持ちに近いかもしれない。「みんな」って誰?という聞かれることがあるけど、自分にとっての「みんな」は、充実したものをもっている人たちのこと。それを感じるとき、その気持ちが強くなるかもしれない。このまま一生ずっと、そこから抜けられないのかと思うと・・・。努力しよう!と言われれば余計に、それが努力できない自分はゴミのような存在に感じてしまう。そんな話を誰かに打ち明けたなら、すぐに「病んでいる」と言われるから言わない。

 

・嫌な思いをしていること、それを引き受けていること自体を「幸せ」に感じていることを誰かに打ち明けたとき、そのことを「怖い」と言われたときがある。「変だ」とも。そんなふうに言われると、話しすることをやめた。

 

・友達がこの集まりのことを知りたがっていた。自分のことや思いを話をするんだと伝えたけど、気持ち悪い、宗教みたいだから、そんなところ行きたくない。それはきっと刷り込まれているんだという。自分は感覚を刷り込むことはできないと思う。

 

・過去を消したい。いまのつながりを経ち、誰も知らないところでリセットしたいという気持ちも、生命の終わりではないかもしれないが、近い気持ちにあるのではないか。携帯電話の連絡先をすべて消したり、携帯を破棄したりしてつながりを断ちたいと思うこと。存在残るようなものは消したい。なんか怖い。形跡が残るものを消したい。

 

・そういうことをすることによって、心配してくれる人が出てきたりすることを期待している自分もいたりもする。人とのつながりを切りたいと思いながらも、連絡が取れなくなったら誰かが心配して家に来てくれるだろうと。切りたいといいながらどこかで期待している。注目してほしい。気づいてほしい思いもあった。

 

・自分にとっては、仕事がないことが耐えられない。偶然、みんなが仕事をしているのに、自分だけが仕事がないときに、自分は必要ないと言われているようで辛い。必要とされていないかのように思ってしまう。自分だけ必要ないと言われているように・・・。過去の経験から、自分だけ要らないと言われているのを思い出してしまう。

 

・この状況は、話の流れについていけないときにも感じる。ダメなのかもしれないと思う。

 

・こうした話を誰かに打ち明けたとき、「考えすぎ」と言われる。自分は「考えすぎ」という言葉は誰かに使わないようにしたいと思う。

 

・前向きな言葉にコーティングされるのはいや。

 

・「死ぬ気があればなんでもできる」なんて、言われたくない。何かあれば聴いてやるといわれても、どうせ同じことを言うだけなのだろう。

 

・「死にたい」と打ち明けたとき、「わかった、病院に連絡する」と言われた。何をわかったのかも不明だし、なぜ病院なのかもわからない。「どうしたのか?」、「何があったのか」ということついて、なぜ聞こうともしないのか。「・・・なんで?」って聴いてもらえるだけで救われる感じがする。

 

 

(2)「死にたい」という言葉を聞く側だったなら、どのような感じになるか

・「休もうよ」とか「冷静になろうよ」という言葉を使いそう。

 

・「いつものことか」と思いながら、もし本当になったらと思うと怖い。(薬を)飲む前に行ってくる人がいた経験がある。相手にとってどんな意味があるのかわからないけど、「目の前で飲まれたら怖い。せめて、話している間に飲むのはやめてほしい。何があったのかだけ教えてよ。」と伝えたことがある。その人は、「働いていて、嫌な思いをして・・・人として扱われていないこと、否定されているような感じがしたんだという。そういう思いを聴いて、自分は何かを言ったわけではないけど、話していたらその人は「今は話しただけでも・・・わからないけど、薬飲むのはやめるわ」と、なった。

 

・何かしようとはしていなくて、「そうなんだ」、「ああ・・・」って、適当にしているわけではなく、そんなこと言われたらはがやしいねとか言っていたら、その人は薬を飲むのをいつもやめている。何をしているのかはわからないけど。自分は話している間だけ薬をのむのはやめてといった。

 

・親に対しては自分の意見を言いがちかもしれない。それは、しっかりした自分を見せたかった、のかもしれない。ひとり親だから。父親が居ないから自分がその役目を果たそうとしているのかもしれない。事故を起こした時に呼ばれたとしても、実際は何もできないのに。

 

・相手から言われてうれしかったことは、「悩んでいることを話していたら、どうでもよくなった」という言葉。

 

・一番、仲のいい友達と食事に行ったりすると、その人のようになる。その人は、感想のようなことはいうけど、ああしろこうしろとは言わない。「で、何食べに行く?」といってくれる友達。「で、カラオケ行く?」といってくれる。カラオケ行くとどうでもよくなった。ただ一緒にいてくれる人、一緒にいてやろうと思っているわけではないのだろうと思う。ただ、居心地がいいというのがいいのかもしれない。

 

 

 

【参加者の感想】

今日は「死」という言葉から思い起こすこと。

 

花や草が枯れた感じ。

 

自分が職場で何も仕事がないとき(周りの人は仕事があって)に自分はいらないように感じてちょっとのことかもしれないが死にたいという気分になるという思い。

自分自身は、「死にたい」と思ったことがあって、その時は周りの人すべてが受け入れられない感じがしていた。そして周りからのつながりをすべて切ろうとした(携帯トイレに流すということ)でも数日間するとさみしいという思い、誰かと話したいという思いになりまた携帯を契約した自分。

 

死にたいと思う自分と実は今このつらい思いを誰かに知ってほしいと感じていて、「死」という言葉や周りからのつながりを切るという行動をしながらも、そうしたら?誰かが自分を心配してくれるかも?自分の存在を気づいてくれるかも?という思いでいたことに気づいた。

 

「死」という言葉からだけでも、いろんな感覚や思い、そして、その言葉から思い出すことがあるんだと感じた。そして、その感じたことや思いを自分自身の中と相手の中で巡らせながら、思い起こしながら、伝え会うことにより相手の思いを大切にしながらも自分の思いはちゃんと伝えている自分がいた。やはり、そういうのがつながりを大切にするということなのか?と感じた自分。